janomegasa’s diary

コロナ鬱にならない為に始めた事を紹介しています。

昔住んでいた街。調布市国領町の思い出

今から42年前に住んでいた町、調布市を訪れた。

当時住んでいたのは都営住宅の団地と呼ばれていたところ。

5階建てでワンフロア―に3戸とこじんまりした造りだった。我が家は3階なのに909号室だった。それも9号館だったので住所は9-909だ。戦後コンクリート造りの集合住宅が建設され、当初は目新しい建物で、私の両親は抽選で当たり喜んで、入居したと聞いている。お風呂がなかったり、洗面所が間違えてベランダにあったり、窓に落下防止の柵が付いていたが、張り付きすぎて刑務所か?と思わせる欠陥住宅だったが。

生まれてから小学校4年生までそこで過ごした。幼少のころの思い出の地である。

当時は団地の何階に誰が住んでいて、家族は何人でなど、今でいう個人情報はみんな共有していた。お互いの家を行き来するのは普通のことで、仲良く遊ぶ仲間はそこに住んでいる団地の子が多かった。特に幼児期は毎日のように、年下の近所のおうちに行ったり、原っぱのような公園へ行ったりしてよく遊んだ。

1年生になると6年生のお姉さんが学校まで連れていってくれた。重たい荷物を持ってくれ、とにかく面倒見がよかった。

同級生は男の子2人。活発な親分肌のたっ君と、優しいひとし君。たっ君は、女の子なんて相手にしないから私はよくひとし君とおままごとをして遊んだものだ。すぐ前の公園に行き、桜が咲けば木をゆすって桜吹雪にして楽しんだり、バッタやセミを見つけて取ったり泥団子を作ったり、今から思うと好奇心を満たすことが出来る場だった。遊具は滑り台とブランコくらいしかなかったが、工夫して遊びをたくさん作った。毎年、夏になると、盆踊り大会があった。それは、子供がとても楽しみにしている夏のメインイベントで何故かクワガタを売りにくるおじちゃんが人気者だった。学校のプールは毎日通った。夏休みが終わるとどれだけ日焼けしたか黒んぼ大会があった。(今では差別用語)集会所では子供会主催のカレーライスを食べに、スプーンとお皿を抱えて、なぜか走って行った。

何よりも忘れられないのは、駐輪場前の空きスペースで開催されていた宴会。昼間から、ブルーシート敷いて食べ物を持ち寄り、歌って踊って大人が大はしゃぎしていた。特に私のおばあちゃんは宴会が大好きで、都内から駆けつけて参加していた。そこには、そんな、誰でも受け入れてくれる心の広さがあった。

 

団地の仲間のおうちに行くとそこのお母さんがいつも話しかけてくれ、おやつを出してくれた。また、隣の星さんのおばあちゃんは廊下で会うと、「見て、見て」と自分のおでこをたたき、歯茎を一瞬ではずして見せる。おそらく手品風にして驚かせたかったのだろう。当時の私はにこにこきっと笑っていたのか、星おばあちゃんは、何度もやって見せてくれた記憶がある。そこのおうちのにおいはカップラーメン。ドアを開けるといつも匂いがしていた。

ラーメンのにおいがすると星おばあちゃんを思い出す。

金子団地。そこは人情であふれた団地だった。

 

訪れた団地は当時とすっかり変わってしまっていたが、」図書館や近所の団地は見覚えがあり当時を思い出すきっかけになった。時代とともに街並みが変化していくのはしょうがないのかも知れないが、当時の変わらない街並みを見てみたかった。